関東軍の歴史について
大変興味があります。
戦争のまじめな話。実は知らないことばっかりでした。
日露戦争後にロシアから獲得した関東州租借地(遼東半島)と南満州鉄道(満鉄)の付属地の守備をしていた関東都督府陸軍部が前身。1919年に関東都督府が関東庁に改組されると同時に関東軍として独立した。当初は独立守備隊6個大隊と内地から2年交代で派遣される駐剳1個師団の編成。
1928年には、北伐による余波が満州に及ぶことを恐れた高級参謀・河本大作陸軍歩兵大佐らが張作霖爆殺事件を起こす。しかし、張作霖の跡を継いだ息子張学良は、国民政府への帰属を表明し工作は裏目となった。そのため1931年、石原莞爾作戦課長らは柳条湖事件を起こして張学良の勢力を満州から駆逐し、翌1932年、満州国を建国する。当初、犬養毅首相は満州国承認を渋るが五・一五事件の凶弾に倒れ、次の斎藤実内閣は日満議定書を締結し満州国を承認する。その後、関東軍司令官(後に総司令官)は駐満大使を兼任するとともに、関東軍は満州国軍と共に満州国防衛の任に当たり満ソ(張鼓峰事件)、満蒙(ノモンハン事件)国境紛争に当たっては多数の犠牲を払いながら、満州国の主張する国境線を守備する。
一方で、1917年のロシア革命とその後の混乱により弱体化していたソビエト連邦は、1930年代中盤頃までに第1次及び第2次五カ年計画を経て急速にその国力を回復させていた。当初日本側は、革命ソ連の実力を過小評価していたが、ソ連は日本を脅威とみなして着実にソビエト連邦軍極東軍の増強を続けていた。関東軍は1938年の張鼓峰事件で初めてソビエト連邦軍と交戦し、その実力は侮りがたいことを知る。さらに1939年のノモンハン事件では大きな損害を被り大日本帝国陸軍内で北進論が弱まる契機となった。
なお戦後のある時期まで張鼓峰事件・ノモンハン事件は大日本帝国陸軍の一方的敗北であったと考えられていたが、ソ連崩壊により明らかになった文書によると、両戦闘におけるソビエト連邦軍側の損害は実は日本側を上回っていた事実が分かった。これにより特にノモンハン事件に関しては現在再評価が進んでいるが、北進の意図を挫くというソビエト連邦軍側の目的は達されたのであるから、戦略的にはソビエト連邦軍側が勝利したことは疑いないであろう。
これらの武力衝突によりソビエト連邦軍の、関東軍にとっての脅威が認識されたことや欧州戦線の推移などにより関東軍は漸次増強された。日中戦争勃発前夜の段階で関東軍は独立守備隊5個大隊及び4個師団となっていたが、1941年にはさらに14個師団にまで増強された。加えて大日本帝国陸軍は同年勃発した独ソ戦にあわせて関東軍特種演習(関特演)と称した準戦時動員を行った結果、同年から一時的に関東軍は74万以上に達した。精強百万関東軍と言われたのはこの時期である。
引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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